何ぞ変態か。
1話目を開けば、出オチだ。
可愛いみんなは女装子、男の娘。
それで済むのか?
それだけで済むのか…??
女装子、男の娘、でもみんな違う
近年、LGBTへの議論が盛んですが、同じ女装子でも性同一性はあったりなかったり、レズビアンならフェム寄りタチとかボイ・リバとか、色々あることを(多くは当事者マンガで)知ることができ、多様さに最初は驚かされたものでした。
へーこんな!
そっちはそんな!
あっちはそっち?!
そんな風に、事細かに自分以外の人々のお話を聞いていると、分類するのがバカバカしいことに気付きます。
でももう今となっては驚きません。
そもそも、LGBTも、もっと細分化すればLGBTTQQIAAP…と続くわけです。
自分と同じ嗜好・指向・思考の人間は何十億人居たって居ないということです。
人の数だけ性と心があって、グループに別けてみようというのがそもそも人工的で不自然で、他人事ですね。
別けるのは、利便性のためであって本質ではありません。
「ぼくらのへんたい」は、女装子が集まるお茶会から始まります。
しかし、かわいいヒロイン、ツインテール、眼鏡お姉さん、全員中身が全く違うのです。

かわいいヒロインについては、途中、カミングアウトや学校での対応が描かれます。
小さな頃から悩んでいた、思春期でもっと悩んだ、適切な病院に行った、学校でもカミングアウトした。
時折耳に入りますし、描かれることも多いですが、耳に入りやすいのはざっくりとしたあまりにも大雑把な概要です。
一方で「ぼくらのへんたい」では、その「世界」にドップリとハマることができるので、主人公がカミングアウトや区切りを付けて一歩踏み出すシーンでは、ホロリと涙せずにはいられません。
このシーンについては、ニューハーフの方と医師の方に取材されたことが巻末に記載されていました。
作者が性同一性障害の当事者というわけではないのではないかというのは、この作品内の描写、後の自伝的作品を見て伝わるのですが、当事者であることと共鳴することとは全く別です。
向き合った生の声に裏打ちされた、作者の描写力が、共感の枠を超えて共鳴を起こします。
絵のかわいさとディープな苦悩が描く未踏の対角線
一方で、「これは作者が体験したのだろうな」とわかってしまう描写が、性被害についての描写です。
性被害に遭っただけではなく、結果的に性嗜好に影響が出てしまったこと。
強い自己嫌悪の精神世界が、ディープに、ディープに描かれています。

ここまでを描く作者が一体何を経験したのか、いつか描いてくれるだろうか…と思っていたところ、描いてくれました。
気になる方は「愛と呪い」をチェックしてみて下さい。
こじれるけれど心地よい歯ざわり
ドーリッシュでシンプルな絵のタッチで描かれるディープな精神描写、事態もこじれてゆきますが、こじれにサクッと切り込みを入れるキャラクターも登場します。
ぐるぐるにこじれた三つ巴、それがサクッとザクッと刻まれると小気味の良い感触がします。
2人、ザク切りの立役者がいます。
その2人を救世主として依存することができたかもしれないけど、そうはならない。
そんなところがこの物語の美味でもあります。
また、心が化膿している者は、解放されている者が手を伸ばしても手を取らず、縛られた者に惹かれてしまうという、こじれたリアルを汲んでいます。
他者を通じて自分自身と向き合い、ケリを付けるのは、本人達自身なのでした。
みんな毛穴の無い可愛いキャラクターで、軽いかと思いきやとんでもなく青春の苦しみと人間にとって大事なことが詰め込まれている愛すべき作品です。
共感出来ないことでも共鳴させるから漫画が好きなんだ。